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連載小説ブログ「昭和56年」
小説「昭和56年」

第一回「社会人のはじまり」

昭和56年4月―― 俺は大学を卒業し、新橋に本社がある損害保険会社に入社した。 当時の損保は、ボーナスが年間10ヵ月。6月・12月・3月の年3回の大盤振る舞い! 中堅私大の文系の俺にとって、どうせ営業でモノ売りをやらされるなら、コンドームだろうがロケットだろうが、所詮形が違うだけ。なら年収の高い企業を選択すべしと考えていた。 今と違ってネットなんかないから、企業ブックを片っ端から読み漁り、年収の高い企業ばかり受け続けた。  しかし年収の高い企業は、先物取引か超大手ばかり。両極端なんだよな。  大手の採用は当たり前のように指定校枠があり、最低でも六大学以上かそれに準ずる大学が当時の常識。その上運動部なら文句なし。そうなると埼玉であまり名前の知られていない俺の大学じゃ門前払い間違いなし。  当然、書類選考落ちの、苦戦続き。しかも書類選考結果のたった一枚の通知文書。文末最後に書いてある「貴君のご健勝をお祈りします」ってフレーズには傷ついたもんだ。22年間の自分の人生をたった一枚の紙っぺらで評価される。自分の怠慢を棚に上げ、世間の厳しさを始めて知った瞬間だったのを覚えている。  こりゃいかんと思った俺は、送付する履歴書に手紙を付けたのだ。  当時の学生は、基本的定年までいる永久就職が常識。転職は敗れ去った者という感じだった。永久就職なら、女房を選ぶのと一緒だ。なら俺が如何に有能で、俺を採用しなかったら末後の代までの恥だぞ。そんな感じで人事部宛にラブレターをせっせと書いたのだ。    このラブレター作戦は大成功し、内定は大手3社。 希望通りの損保を選んだ次第だが、後から聞いた話じゃ当時の金融機関は最低「優」が30個以上必要だとか……。 俺は体育を含めたったの3個。同級生たちからは「おまえ良く内定取れたな。コネ!?」と言われる始末。   入社してこれも後から聞いた人事の話。  大手企業の選抜基準は、やはり高偏差値学生と超強力コネで内定が埋まる。何故なら面接で学生を見抜くのは至難の業。ならば偏差値の高い学生を採用していれば、外れても納得するそうだ。そして残りの数人がチャレンジ採用と言われていた。  高偏差値ばかりだと偏るので、変わった学生も採用しようという考えだ。まあこうなるとイロモノ・シリーズの感じがしてしまう。鼻から期待はしていないが、多少期待のイロモノ採用ってやつ。  4月1日入社式は本社の大講堂で行われた。  役員や先般社員達の出迎えの盛大な拍手の中、俺たち新入社員は一礼をして会場に入っていく。この時、俺は見られている感で一杯だった。 100人近く居る新人の同期は、全員ネイビーのスーツに髪は七三分け。爽やかな春を感じさせるライトグレーのスーツは俺一人だけだった。ちなみにこのスーツ、今は無きテイジンメンズショップのものだ。俺が中坊の頃は、銀座テイメンはトラッド嗜好の連中に取って日本の総本山的な位置づけだった。 https://www.fashionsnap.com/article/2021-02-25/teijinmensshop-close しかも入社する直前までグアムに行っていたものだから、顔は真っ黒の上、ニグロパーマのショートヘア。 「なんだ! あの新入社員は!?」と、目は口ほどにモノを言っていた。 入社式が終わり研修所に入り、名簿が渡された。 名前の横に出身大学名が書いてある。やっぱ金融機関だなあとつくづく思い読んだのを覚えている。そしてふと思ったのは、よく内定貰えたもんだ……。 入社して気づいたイロモノ採用。 学生時代イケイケの俺にとって、初めて世間の現実というものを感じた瞬間だった。 その夜、研修所のベッドに横になり、ソニーのウォークマンを手にした。 https://www.butsuyoku.net/legend/tps-l2  シャネルズの街角トワイライトをしみじみ聞いたのを覚えている。 https://www.youtube.com/watch?v=nxTKkBpXFTc  ホールドミータイト~♪♪  まあ、何とかなるだろう。こうなりゃイロモノでいってやる!  俺は超楽天主義なのだ。

昭和オヤジの記憶

昭和のわかもの

大正の後、平成の前。大化以降230番目、246個目[注 1]の元号である。昭和天皇の在位期間[注 2] である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)日本史の時代区分上では、元号が昭和であった期間を昭和時代(しょうわじだい)といい、グレゴリオ暦(西暦)において20世紀の大半を占める。本項ではこの時代についても記述する。大正天皇の崩御に伴い、皇太子裕仁親王が皇位を継承し、即日「昭和」と改元された。昭和天皇(裕仁親王)の崩御に伴い、皇太子明仁親王(現上皇)が皇位を継承し、「平成」と改元されることとなって幕を閉じた。 最も長く続いた日本の元号で64年を数えるが、「元年」と「64年」は共に7日間しか使用されなかったため実際の期間は62年と14日(22,660日)となる。外国のものを含めても最長の元号であり、歴史上60年以上を数えた元号は、昭和の他には、清の康熙(61年)と乾隆(60年)しかない。 最長の元号である上、この期間は第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結した1945年(昭和20年)9月2日や終戦記念日の同年8月15日を境に、それ以前の約19年間は戦前(および戦中)、以後の43年余は戦後と、社会の価値観・諸制度や政治体制が大きく異なる時代に分かれ、世界史上の時代区分もそれぞれ近代・現代と別になっており、一体的に捉えることは難しい。(要出典)昭和は登極令(皇室令の一部)による制度での最後の元号であり、1979年(昭和54年)の元号法制定の際、同法附則第2項により、「本則第1項の規定に基づき定められたもの」とされた[注 4]。 「昭和」の由来は、四書五経の一つ書経堯典の「百姓昭明、協和万邦」(百姓昭明にして、万邦を協和す)による。漢学者・吉田増蔵の考案。「昭和」が元号の候補になったのはこれが最初である[1]。なお、江戸時代に全く同一の出典で「明和」(1764年〜1772年)の元号が制定されている(「百姓昭明、協和万邦」)。国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。 当時枢密院議長だった倉富勇三郎の日記によれば、宮内省(現:宮内庁)作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「神和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「同和」を参考とする最終案が決定した。一方、内閣では「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」を元号案の候補に挙げていた。