• March, 2025
気になる時事ニュース

高齢ドライバー

2019年池袋にて起きた高齢ドライバーによる暴走事故以来、高齢者の運転による交通事故というものが、やたらと取り上げられるようになった。幼い女の子とそのお母さんが亡くなった非常に痛ましく、悲しい事故であるのに、加害者である高齢ドライバーの故飯塚幸三が謝罪どころか、ブレーキとアクセルの踏み間違えを認めず、事故発生直後から批判的な報道も多かった。 この事故を機に、全国では高齢ドライバーの運転免許証の自主返納といった動きも多少なり進んだものの、高齢ドライバーによる交通事故は後を断たない。 ただでさえ少子化という社会問題を抱えている日本において、老人が若者の命を奪ってしまう現状はまさに本末転倒である。未来ある若い世代の命を奪い、先行き短い老人が残る。決してあってはならないことだ。 会においては高齢者が運転しなくても生活できる環境がある程度、整っている。しかし地方においては車がないと生活ができないという理由で運転免許証を返納できない現実もある。地域や地方行政などによるサポート体制を真っ先に考えるが、全国満遍なくそういった高齢者向けのサポートができるかといえば決して簡単ではない。 そうなると自主返納といったあまい考えではなく、強制返納的な法の整備が必要なのではと真剣に思う。 私自身、60歳の還暦に近い年齢ですが、やはり昔のような運転はできない。18歳から40年以上に渡り自動車を所持し、運転しない日はないというくらい毎日車を数時間は運転している。そんな私でも、一時停止のところで、昔なら見切り発進でも、しっかりと左右の安全確認ができたが、今ではどんな時でも確実に止まって、左右をしっかり確認するのに時間がかかる。高齢化と共に反射神経が鈍くなり、さらには老眼というものが追い打ちをかけているのがよくわかる。 そんな私が考えているのは、早かれ遅かれ、今のうちから免許証を返納した時の自分の生活環境を見据えるということ。地方行政や地域サポートだけに頼らず、自身からその時がくる前に、車がなくても生きていける生活環境を築くということです。 高齢者だから我慢して生きていくというのではなく、長年の人生で経験を活かし臨機応変に対応できる環境を年相応にこなしていくということ。食材をはじめ、日常生活に必要なものは、車で行かなくても買いにいける状態にする。車が必要な趣味は、車がなくても対応できるようにする、または車がなくても楽しめる新しい趣味を見つける。地域の人たちとの交流を深め、もちつもたれつの人間関係をしっかりときずいていく。災害などもそうですが、行政などのサポートに頼りきろうとするのではなく、自主的に防災セットなどを用意する姿勢が日本人にはあると思います。それと同じような姿勢を運転免許返納に備えて準備していくという姿勢が大切なのではないでしょうか。 私自身、長年にわたって車を愛し、自宅ガレージにてオイル交換は当たり前、さまざまなパーツの取り付けや修理もおこなっています。ただ今のように10年後に同じ運転ができるかというと、わかりません。できたとしても、70歳からは免許強制返納と法が整備されるのであれば、未練もなくなります。 若者が無理な自動車の運転を起こし、人身事故を起こしてしまうのは、命の尊さや人生経験の浅さというさまざまな浅はかさが若さゆえという風に考えられますが、人生経験が豊富な、命の尊さを理解している高齢者が自分のエゴのために、若い世代の命を奪うというのはやはりあってはならないことだと思います。 高齢者は社会や行政に不平不満を言う前に、自分の襟元は自身で整えるのがよいのではないだろうか。

連載小説ブログ「昭和56年」
小説「昭和56年」

第五回「初任給」

 木造モルタルのマンションに意気消沈した俺に気づかない総務の先輩は、勤務先となる白石営業所に連れて行ってくれた。  「北海道本部 札幌支店 白石営業所」というのが俺の勤務先の名称だ。営業テリトリーは、札幌周辺から恵庭市と千歳市と先輩が教えてくれた。 営業所は所長に所長代理に係長、そして俺の男性四人の職場。それに女性が二名だそうだ。  損保業界は生保と違って直接保険を売るというより、販売代理店を通して販売する形だ。なので損保の営業マンのシゴトは販売代理店の管理・育成ということになる。そんなことも知らないで損保を選んだのかと、研修中に同期の連中に呆れられたこともあったっけ。 職場に初出社したのは午後の二時過ぎだった。 「来たか。イキの良い顔してるな」 俺の姿を見た瞬間、所長はにこやかな笑顔で迎えてくれた。  噂通りのなかなかのナイスガイだった。六大学出身でヨット部のキャプテンだったというのは、研修期間中に先輩方から教えて貰っていた。この研修期間中は、赴任先の上司の情報がすさまじく飛び交っていた。「あの人ね……」と否定に近いコメントが出ると、途端に暗くなる同期も居た。 スーツ姿に胸のポケットチーフがなかなか決まっている。  こんなセンスの人も居るんだと驚きだった。研修期間中、出会う先輩方はみんなネイビーのスーツばかり、シャツもそれなりでお洒落の「お」の字も無い。父親がデザイナーで中坊の頃から「メンズクラブ」(wikipedia参照) が愛読書だった俺には、金融機関てこんなもんだろうと諦めていた。 https://www.nitesha.com/?pid=171233042  そして所長から渡されたのは現金支給の初任給だった。中を見ると16万円くらい入っている。  3月25日に研修所に入り、一か月の研修を終え、新任地に着任した今日は25日で給料日だった。  そしてこの日の夕方は俺の歓迎会ということで、近所の居酒屋に行き、それからスナックのカラオケという必殺のサラリーマン宴会コースだ。  当然俺は十八番の、「街が泣いていた」でスナック・デビューを飾ったのだ。  歌っている途中、スナックのねーちゃんの手拍子が心地よくて、スナックって面白れぇなと思う俺だった。   「給料もらっていいんですか?」  宴会の途中、所長にそう言うと思い切り笑われた。  というのも俺は大学の学費しかり、洋服代・遊び代、全部バイトで賄っていたからだ。働いて金を貰うというのが浸み込んだ俺にとって何もしていないのにお金を貰うのが信じられなかったのだ。 「研修もシゴトのうちだ」と上司・先輩たちに笑われたのを覚えている。  そして十曲くらい歌いまくり歓迎会はお開きとなって、宮の森の恐怖の社宅に戻った。  四畳半一間。  トイレ共同、風呂無し。擦り切れた畳の上には荷物の入った大きな段ボールが五個。  四月の赴任だったから、暖房器具の用意すらない。部屋の中はしん、としている。  畳に座り、俺は静面具を取り出した。銭湯に行くためだった。 住宅街にあるひなびた銭湯。時計は10時半だった。 な、なんと閉まっている。看板の横には営業時間が10時までと。 勘弁してくれよ。東京の銭湯は12時近くまでやってるぜ。 これじゃ神田川も出来ねえじゃねえか。