連載小説ブログ「昭和56年」

第九話 さっぽろを散策(2)

 当初は何で俺がさっぽろにと思っていたが、空の青さに惹かれ始めていたのを覚えている。  よく雪国の人達が「春が恋しい」というけれど、重たい雪が連日数か月続くわけだから、それなりの感覚はあるのだろうな。  だから街の雰囲気は春っ!てな感じて息づいてる感じだった。空が高く、ブルーの青空かどこまでも広がり、木々の緑は心なしか濃い色を放っていた。  そして街中をあるくラルフのサマージャケットを着た俺は、ショーウインド越しに映るのを見て、我ながら決まっていると思っていた。当然さっぽろの街を歩く同年代じゃ俺様が一番と思っていた。    さっぽろの中心は駅前もそうだけど、大通り公園からすすきのに向かう途中にいろいろな店がある。  洋服好きな俺は、札幌三越や四丁目プラザとか軒並みショップを回っていた。  東京とそんなに変わらず一通りのブランドが揃っていた。 「東京からですか」  店を回っていると店員さんと会話をすることが増え、転勤で来たというと、ショップのねーちゃん達が心なしか興味津々と言った感じて根ほり葉ほり聞いてくるのに対し、非常にタカビーな態度で偉そうに会話に付き合っている俺が居た。  当然、地元の子と親しくなりたいというスケベ心が猛烈に働いたが、琴線に触れる子は居なかったなあ。   でも札幌パルコのショップを回っているとすげーかっこいい女性に目を奪われた。  とても淡々として感じは高ビー丸出し。俺の必殺の「東京から転勤で…」というフレーズも「あっそう」てな感じで通じない。  肩透かしされた俺は、興味を引こうと六本木の遊んでいた店の名前をずらずらと喋りだしたが、「だから何?」てな感じでとりつくしまもない。  ますます焦る俺……。  結局その子とは非常に仲良くラブラブになったけど、後から聞いた話だけど、彼女はこの春まで東京の本店で働いていて、母親の具合が悪くてさっぽろに戻って来ていたそうだ。  相当遊んでいた様子で、六本木の店は悔しいことに俺よりか詳しかった。 「多いのよ、転勤で来た人が自慢気に大阪や東京の話で気を引いて、食事に誘う軽薄君が」  ベッドの中で、大きな瞳に見つめられ、突き放すように冷たく言われたんだよな。  軽薄君……。  その晩は、同期の連中で待ち合わせして食事をする予定だった。  定番のジンギスカンを食べ、同期の一人が「ノーパン喫茶行こう」と言い出した。  当時は大阪で流行っていた札幌にも上陸したらしい。 初めて行ったノーパン喫茶に俺は悶々とした。 大阪商人、恐るべしとつくづく思った。 そして店内の女性陣に目を走らせる俺。う~ん、やはり軽薄君かもしれない。

連載小説ブログ「昭和56年」

第八話 さっぽろを散策(1)

五月の連休に入り、俺は街ブラを初めてした。  気候は若干まだ肌寒く、お気に入りのラルフローレンのマドラスチェックのサマー・ジャケットとネイビーのパンツに白シャツを着こんだ。  ラルフローレンを初めて手に取ったのが、確か大学二年の頃だったのを覚えている。当時渋谷でバイトをしていて、街ブラの途中に入った西武百貨店にラルフの店はあった。  トラ系の感じに惹かれ入ったのを覚えている。そして定番のポロマークの入ったポロシャツ。とても上品な感じで思わず買ってしまったのを覚えている。  当時俺らが大学生の頃に流行ったのは、クルーズのロゴ入りトレーナーやフクゾーのポロシャツ。  昭和52年頃はニュートラ路線が全盛期だから、男はチノパンにクルーズのトレーナーにクークスのワラビーが定番ルック。女性陣はミハマのべったんこ靴にフクゾーが多かったな。  おまけに当時は雑誌「JJ」が大流行り。  フェリスとかの有名女子大のお嬢様系大学生とその彼のスナップショットに掲載されるのが、俺ら大学生の自慢だった。そしてハマトラなる造語も産み出していたな。  このサイトに懐かしい写真があるけれど、しみじみ懐かしがって見ちゃいます。  当時トラ族のバイブルだったJJも今や廃刊だとか……。  俺は俺で流行ものは追わない天邪鬼だったから、皆が着だすと妙に冷めちゃう傾向が強いから、ラルフローレンとの出会いは「これだ!」って感じだったのを覚えている。今は定番で誰でも着ているからもう買うことはないけど。  当時はバイトで貯めた現金で西武百貨店の渋谷に通ったのを覚えているなあ。  そして友達に「まだクルーズ着てんのかよ」なんてエラソーに講釈垂れたの覚えているな。

連載小説ブログ「昭和56年」

第七回「人は何に支配されるのか」

リハックの宮沢は酷かったなあ。 完全上から目線で、総理もくそも無かったな。 SNSの情報だと、この人のアイデンティティーは東大卒らしい。それ以外は眼中無し。 東大出て、キャリアの人生を送ることに価値観を見出し、それに支配されている。公務員は公僕というのは無いのだろう。 これに似ているのが医者だな。 基本的に医者は小さい頃から優秀と言われ続け、難関の医学部に合格し医師となる。医師となれば周りから「先生!」とちやほやされ続けるから、自然と背中は年と共にそっくり返ってくる。 俺の場合そういった類はパスだから、俺が付き合うドクター連中はみんな人間味が溢れるのばかり。 石の上にも三年が常套句で、昭和世代の社員たちの多くは、定年まで勤めあげることが暗黙の理解で、出世に走る連中が多かった。でも上場企業の社長になっても任期があり、株主というステークホルダーがいるので、所詮チーママなんだよな。 上場企業の役員に昇り詰めても、株式会社上場企業に身も心も支配されている。 出張の移動は常にビジネスクラス。次第に俺は偉いんだと勘違い度が増して来る。けれど役員満了となれば、自腹のエコノミー。この現実を知ることになる。  結局あくせく働き、ちやほやされることの処遇に支配されるんだよな。  俺が付き合い連中は、そこそこに仕事をし、週末は自身の趣味に没頭する。だから何者にも支配されていない。  それでも支配者が居るとしたら、女房くらいか。  政治家もそうなんだろうな。  国民という主人公を忘れ、自身の選挙に通ることを目的としている連中がいかに多いことか。地位に支配されているからみっともないことありゃしない。  ではお前は何に支配されているのか?と聞かれたら、  面白いことをやりたい。これに尽きるな。  閑話休題。  次回はブログ小説に戻ろう。

連載小説ブログ「昭和56年」

第六回 無題

 赴任した札幌は4月とはいえ、朝晩は寒かった。路肩には凍った雪が残り、酔っぱらって歩いてすってんころりんは一週間で四、五回はやっていたなあ。  まっ、こんな感じ。 損保業界の場合、保険代理店が商品を売り、我々はそのマネジメントを行うというのが損保社員のシゴトだ。 代理店でも手数料を5,000万円程度稼ぐ方や、年間300万程度とか、様々。 そして代理店は法人・個人の形態があり、これも様々。 様々だから、個性も様々。 酔うと会社の悪口や批判をする人も居るし、この会社は良い会社と褒めるのもいる。 法人代理店は自社の社業の一部に保険代理業をやっている形態だから、基本的にサラリーマンなので、割と紳士的な方が多かったなあ。 やんちゃゾーンの方はやはり個人で保険代理業をやってる方だったな。手数料を沢山稼いでいる方は、当然保険の売上も大きいから会社もちやほやするから、よけい図に乗る人も居た。 ガキの頃から、ノー天気に好き勝手なことやっていた俺にとって、偉そうに話すおじさん方を見て、「人間謙虚が大事!」と思ったもので、本好きの俺にとって「謙虚」というワードは当然歴史もので軽く読み流していたが、実社会での経験は、「謙虚」の意味をしみじみ教えてくれたっけ。 どういうわけか俺はやんちゃ系の代理店に可愛がられた。 まあ損保の入ってくる社員は偏差値採用主義だから、判で押したような連中が多いからイロモノ・シリーズの俺は、「こいつ面白いな」って評価で、毎晩飲みに連れて行かれたな。 新橋の売れっ子芸者のように、毎晩のように飲み歩いていたっけ。 居酒屋でなまら(北海道弁)でかいほっけを食べて。それからスナックのはしご。締めは定番味噌ラーメンね。 一週間飲み続けて、当然風呂には一週間入れなかったなあ。 臭せえぞ、おい。

連載小説ブログ「昭和56年」

第五回「初任給」

 木造モルタルのマンションに意気消沈した俺に気づかない総務の先輩は、勤務先となる白石営業所に連れて行ってくれた。  「北海道本部 札幌支店 白石営業所」というのが俺の勤務先の名称だ。営業テリトリーは、札幌周辺から恵庭市と千歳市と先輩が教えてくれた。 営業所は所長に所長代理に係長、そして俺の男性四人の職場。それに女性が二名だそうだ。  損保業界は生保と違って直接保険を売るというより、販売代理店を通して販売する形だ。なので損保の営業マンのシゴトは販売代理店の管理・育成ということになる。そんなことも知らないで損保を選んだのかと、研修中に同期の連中に呆れられたこともあったっけ。 職場に初出社したのは午後の二時過ぎだった。 「来たか。イキの良い顔してるな」 俺の姿を見た瞬間、所長はにこやかな笑顔で迎えてくれた。  噂通りのなかなかのナイスガイだった。六大学出身でヨット部のキャプテンだったというのは、研修期間中に先輩方から教えて貰っていた。この研修期間中は、赴任先の上司の情報がすさまじく飛び交っていた。「あの人ね……」と否定に近いコメントが出ると、途端に暗くなる同期も居た。 スーツ姿に胸のポケットチーフがなかなか決まっている。  こんなセンスの人も居るんだと驚きだった。研修期間中、出会う先輩方はみんなネイビーのスーツばかり、シャツもそれなりでお洒落の「お」の字も無い。父親がデザイナーで中坊の頃から「メンズクラブ」(wikipedia参照) が愛読書だった俺には、金融機関てこんなもんだろうと諦めていた。 https://www.nitesha.com/?pid=171233042  そして所長から渡されたのは現金支給の初任給だった。中を見ると16万円くらい入っている。  3月25日に研修所に入り、一か月の研修を終え、新任地に着任した今日は25日で給料日だった。  そしてこの日の夕方は俺の歓迎会ということで、近所の居酒屋に行き、それからスナックのカラオケという必殺のサラリーマン宴会コースだ。  当然俺は十八番の、「街が泣いていた」でスナック・デビューを飾ったのだ。  歌っている途中、スナックのねーちゃんの手拍子が心地よくて、スナックって面白れぇなと思う俺だった。   「給料もらっていいんですか?」  宴会の途中、所長にそう言うと思い切り笑われた。  というのも俺は大学の学費しかり、洋服代・遊び代、全部バイトで賄っていたからだ。働いて金を貰うというのが浸み込んだ俺にとって何もしていないのにお金を貰うのが信じられなかったのだ。 「研修もシゴトのうちだ」と上司・先輩たちに笑われたのを覚えている。  そして十曲くらい歌いまくり歓迎会はお開きとなって、宮の森の恐怖の社宅に戻った。  四畳半一間。  トイレ共同、風呂無し。擦り切れた畳の上には荷物の入った大きな段ボールが五個。  四月の赴任だったから、暖房器具の用意すらない。部屋の中はしん、としている。  畳に座り、俺は静面具を取り出した。銭湯に行くためだった。 住宅街にあるひなびた銭湯。時計は10時半だった。 な、なんと閉まっている。看板の横には営業時間が10時までと。 勘弁してくれよ。東京の銭湯は12時近くまでやってるぜ。 これじゃ神田川も出来ねえじゃねえか。

連載小説ブログ「昭和56年」

第四回「トレンチコート」

東京だろうが札幌、福岡だろうが街を歩けば、その風景に溢れているのはダウンコート。圧倒的にダーク系色のダウンを着こなし、ダウン以外を目にすることはほぼ無くなっている。  日本のダウンの最初の流行りは、確か五十年くらい前じゃなかっただろうか。  今流行っているモンクレは昔も主流の一つだったが、学生がバイトを少し頑張って買える範囲だった。だから今ショップでモンクレの価格を見ると「何で?」となってしまうのが昭和オヤジの感覚。街中でモンクレのロングコートを着ているアラサー、アラフォーの女性陣を見ても「無理しちゃってるなあ」の感覚でしかない。  街がダウンで席巻されるのを見ると、天邪鬼な俺は無性にダウンから離れたくなる。先日もクローゼットの奥から取り出したのがトレンチコート。  このトレンチコートも今時のダウンのように、バブル時代は昭和世代にとって必須のアイテムになっていた。  リッチなオヤジ達は当然山陽のバーバリー。都内のデパートには必ず売り場があった。「ボーナス一括払いで買っちゃった」てなセリフを良く聞いたものだ。 スナックのクローゼットはバーバリー柄が占めちゃうから、間違って他人のを着て帰っちゃうのは笑い話の一つ。そして人と同じじゃ嫌だと言う連中は、さらにお金をかき集めアクアスキュータムのトレンチコートをチョイスする。  俺はさらに人と同じのが嫌いなので、ラルフローレンを買っていた。そのラルフのトレンチコートを久々に取り出し眺めてみる。  いい味してるなあとしみじみ思う。  トレンチコートは、ハードボイルド路線の定番。映画「カサブランカ」のハンフリーボガードのトレンチ姿はもう涙もの。  ネットでこんなのを観ると震えちゃうよな。 https://ring-store.jp/feature/real/171215_real_11.html?srsltid=AfmBOopDPw9X8ZP4wKLceRcsXU_FNygQLHwhFU3x3B1Y64Lh8_kOU7jv  あの頃は良かったなと思うのも、昭和世代の邂逅ね。  この冬、俺はトレンチを着るぞ!  防寒対策でインナーダウンは絶対着ない!と決めた俺だった。